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もっと甘えて 03

last update Last Updated: 2025-04-05 05:07:36

できるだけ心を落ち着けて、先ほどあったことをゆっくりと話す。高志が店を覗いていたこと。たぶん春花に会いに来たこと。葉月がこっそり逃がしてくれたこと。途中震えてしまいそうになる春花だったが、静は急かすことなく春花の言葉に耳を傾けた。

そして一部始終を聞いた静は怒りで震え、腸が煮えくり返りそうになった。大切な春花に身の危険が迫っている。それなのに自分は春花を守ることができなかった。怯えた春花は青白い顔をして今にも泣き出しそうだ。

「……ごめん、何とかするから」

気丈にも微笑もうとする春花を、静は叱り飛ばした。

「そうやって抱え込むな。俺の前で強がったりするなって言っただろ?」

厳しくも優しい言葉は、まるで春花を包み込むかのようにゆっくりと心に浸透していく。

静に思い出されるのは音楽室での記憶。家庭の事情で音大に行けなくなったと静に告げたあの日、笑ってごまかそうとした春花に対して静は言ったのだ。

『俺の前で強がったりするな』

あの時だって春花は一人で抱え込んでいた。静は助けたいと何度思っただろう。今はあの時とは違う。大人になったのだから、きっともっと春花の力になれるはずだ。いや、むしろ助けなくてはいけない。

「俺が助けるよ」

「……でも、どうしたらいいんだろう?」

高志のモラハラに耐えて耐えて、ようやく抜け出した道。勇気を出して別れを告げ、どうにか解放されたと思ったのだ。そしてやってきた静との幸せな時間。ようやく掴んだ幸せに亀裂を入れられたような、そんな気持ち。

「大丈夫、一緒に考えよう」

静は春花の手をぎゅっと握る。静の大きくてあたたかな手は穏やかで心地よく、春花の心を温かく包んだ。
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